復活!ロックの学校

ロックやポップミュージック黄金期(60年代~70年代)の音楽を中心に、洋楽、邦楽の超メジャーから、超マイナー・激レアなものまで、楽しみながら勉強できるロックの学校です。

RCサクセションの暗黒時代

きり~つ!礼!着席!

本日の講義は、RCサクセションです。

早いもので、忌野清志郎さんが亡くなってから7年経つんですね。

丁度7年前のゴールデンウィークに、朝TVで訃報を知った時のショックと悲しみは、いまだに鮮明に覚えているほど、私の人生にとって最大のインパクトを与えたものでした。

清志郎さんのことはどれだけ偉大なミュージシャンであったか語り尽くせないのですが、今日の授業では、普段なかなか取り上げられることのない、3人で活動していたRCのフォーク時代に焦点を当てて講義をしてみたいと思います。

 

実は校長、RCはフォーク時代の音楽が一番好きでして・・・。もちろんストーンズ的なロック・バンドの時は、それはそれで格好良かったのですが、フォーク時代はまたそれとは別物で違った凄さがあるのです。

バンド以前の、本人達曰く「暗黒時代」、すなわち3人のフォーク・トリオ時代の音楽は、フォークと言っても単なるフォークというジャンルではくくることが出来ないもので、多種多様な音楽性を持ち、またそこに流れている狂気性は美しく、清志郎の書く歌詞は、物事や人の本質を見透かしたかのような研ぎ澄まされた感性を持って書かれ、「本当に良いものは何か」を本能的にキャッチできる、日本人離れした非凡な音楽性はまさに「日本のドアーズ」とでもいうべきもので、いつも聴くたびに初期RCの作品に驚嘆してしまうのです。

 

RCサクセションの活動は、1970~1991年の20年間でした。しかしその20年は波乱万丈で、細かく分けると3回の暗黒時代がありました。その中でも一番暗黒の時代はフォーク・トリオだった時代、中でも1972年~1975年の間を取り上げます。しかし皮肉なもので、RCに限らずですが、暗黒期ほど良い作品が生まれるんですね~。人は逆境や苦しみの中でこそ何か大きなものを得るものなのではと。

<RCサクセションのフォーク・トリオの第1期暗黒時代>

 

「1.わが道をゆく斬新なフォーク・トリオの始まり」

高校在学中に「カレッジ・ポップス・コンサート」に出演して3位入賞したことでレコード・デビューを果たしたRCサクセションは、才能はあり周囲からも期待されていたものの、音楽的にマニアックな方向に向いていき、売れ線は狙わず、世間に認められようが何しようが、自分達の追求する音楽をやっていくという、ファンや周囲に対して迎合することはせず、攻撃的であったことなどから、段々セールス的に落ち目になっていきました。かぐや姫など歌謡曲に便乗したフォークが流行っていた傾向の中で、RCは一層ブルースや毒気が強いものへとのめり込み、聴き手を無視した作品ばかり発表していきました。 そんなスタンスが災いして月5万の月収という超貧乏生活に突入し、それに加えて本人達も怠惰で、ヒッピーのような生活スタイルで大変すさんでいました。2枚目のアルバム「楽しい夕に」リリース後は、更に人気は下降し、仕事はなく、外部からも事務所やスタッフからも相手にされなくなっていきました。

 

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⇒ファースト・アルバム「初期のRCサクセション」(1972年) 

*本人たち的には勝手にプロデューサーに音をいじくられて不本意だった作品だといわれていますが、「2時 間35分」  「ぼくの好きな先生」「シュー」など、RCの代表曲となった作品が収めらています。4畳半フォーク主流の時代にすでに「ガッタ!ガッタ!」でした。

*「バカヤロウ!」「今日はブスが多い!」などとお客を罵倒するという態度、ガラの悪いステージ・スタイルはエレファント・カシマシよりも数十年早かった。   

 

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⇒2枚目のアルバム「楽しい夕に」(1972年)  

*全然売れず、段々音楽もアンダーグラウンド化していき、給料は月3万という生活苦の時期を迎える。   世捨て人のような生活をし、怪しいと思われ警察に見張られるような状態で、友人やガールフレンドに金を無心する日々だった。

 

2.「捨てる神あれば拾う神あり!?」

そんな状態が3年ほど続いて、ようやく1974年に久々にレコーディングの話が持ち上がりました。 元々同じ事務所、ホリプロの先輩だった元モップス星勝と、当時ポリドールのディレクターだった多賀氏が以前よりRCのことをかっていたこともあって、RCが契約していた当時のレコード会社、東芝との契約が切れたのを機に、RCはポリドールに移籍し、レコーディングすることになったのです。

 

3.「飼い殺し状態」

しかしその喜びもつかの間、レコーディングが始まるや否や、活動を中止せざるを得ない状態に巻き込まれてしまう。RCのマネージャーのO氏が、当時爆発的な人気でホリプロのドル箱だった井上陽水を引っ張って、新しい事務所を作ってしまったのです。 ドル箱スターだった陽水を勝手に連れて行くというのは、ホリプロに対する造反以外の何物でもなく、ホリプロにしてみればO氏のしたことは、常識外れの裏切り行為でした。

 

そのような中、RCも当然O氏についていくものと周囲は見ていたし、RCも元々ホリプロの中では孤立していて、O氏しかあてはなく、本人達もO氏の新しい事務所に移籍するものと思っていました。しかし、不運にもRCはホリプロとの契約があと一年残っていたので、ホリプロから出ることが出来ず、そのことによって話がこじれ、後々RCを苦しめることになったのです。

 

このマネージャーのO氏という人は、元々ホリプロの社員で、事情で一旦ホリプロを飛び出しましたが、ある時まだ高校生だったRCを発見してその才能に惚れ込み、自らマネージャーになることを申し出て、RCの面倒見るようになったのですが、金銭的に行き詰まり、頭を下げて再びホリプロに戻ったのでした。 ですからホリプロからしたら、O氏を再び迎え入れてやったのに恩を仇で返されたのには面白くなかった。

 

そこでホリプロはO氏の子分であり秘蔵っ子だったRCに対して契約を切ることを拒み、3万円の給料でRCを拘束するだけで何もしないという嫌がらせをしたわけです。拘束されている間は、契約上ホリプロの仕事以外は出来ない、しかしホリプロは何も仕事をさせてくれない、飼い殺しということです。RC側はホリプロに契約を切ってくれるように懇願するものの受け入れられず、結局RCは契約が切れるのをひたすら待つしかありませんでした。

 

4.「それでも密かにレコーディング~名作の誕生」

そのような状態だったのですが、中断していたレコーディング作業は、ホリプロには内緒で進めることにしました。ホリプロにしてみたら、契約が切れればRCはいなくなることが分かっていて、そんなもののために余計な宣伝費など経費をかけられないし、心情的にもRCは良く思われていないので、レコーディングはホリプロから許可されないことが必須だったため、レコードを作りたかったRCは秘密裏にレコードを作るしかありませんでした。 しかし、その秘密裏につくられたレコードこそが、日本のロック史上の名盤として誉れ高い「シングルマン」だったのです。

 

<RCサクセションのフォーク・トリオの第2期暗黒時代

                   →輝かしいキング・オブ・ロックへ>  

その後、その秘密裏に作られた「シングルマン」が出たのは、ホリプロとの契約が切れてから1年後でした。しかし1年も経つと、本人達の意識の中では「新譜」の実感はなく、「終わった」アルバム、アルバムに対する熱が冷めてしまっていました。晴れてホリプロとの契約が切れて解放され、O氏のところに戻ることが出来たのですが、相変わらず売れずに事務所のお荷物状態、ポリドールから出た「シングルマン」もすぐに廃盤になってしまいます。

 

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⇒3枚目のアルバム:「シングルマン」(1976年)   

*2枚目からなんと4年ものブランクがあってやっと出た悲願のアルバム。内容が良いと周囲から評価されていたものの、プロモーションもされず、契約上1年間は発売禁止になり放置状態に。
 

 

またここから新たな暗黒期、RCにとって第2の暗黒期に入ります。

ギター担当の破廉ケンチが、バンドのエレクトリック化に伴い、エレキギターを弾くように要求されるも、元々アコースティック・ギターしか弾いたことがないので、それに対応することができないということや、極貧、ハチャメチャな生活、将来に展望が見えない日々などの理由により精神的に追い詰められて精神状態が悪化、ギターもまともに弾けなくなり、やむを得ずクビになってしまいます。

 

そして清志郎自身も、いい加減長年に渡るメチャメチャな生活や、音楽的にも周囲やファンから無視される状態にほとほと嫌気がさし、解散もちらほら考え始め、他の仕事を探すようになったり、様々もがき苦しむ日々を送っていました。

 

しかし音楽仲間であった仲井戸麗市、チャボとの交流によって、気の合うチャボと一緒にRCを新たにバンドとして再編してやっていくという意欲が湧き、また清志郎の数多いガールフレンドの中で、本命の「石井さん」のとの結婚も本気で考え、そのためにも才能の商品化を計り、売れるようになることを決心し、生産的方向転換を計るようになります。 そして、分かりやすく単純でノリのいいストーンズやキッスを研究し始め、フォークからロックのスタイルへと変換させていきました。そして遂に皆が知るところの、「キング・オブ・ロック」、日本を代表するロック・バンドになっていったのです。

 

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以上、RCサクセションの歴史の中でも最もドラマチックな時期のことをまとめてみました。 この頃のRCのストーリー、リリー・フランキー氏の「東京タワー」に似ているなあと思います。いつか映画とかドラマとかドキュメンタリーにならないかなと思ってます。

 

ということで、本日の講義はこれにて終了! 起立!礼!ありがとうございました!!

 

youtu.be

*「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」:

2枚目のアルバム収録で、初期の代表曲の一つ。この編成でこのアシッド感はすごい

 

youtu.be

*「ガラクタ」:

貴重な映像を発見!単なる才能では片付けられないものを感じます・・・